ニューギニア戦跡案内 ウエワク



 ウエワク WEWAK
此処、ウエワク半島台上(ニューウエワクホテルがある)は、昭和18年3月頃まで海軍部隊第九艦隊司令部(長官-遠藤喜一中将)第二特別根拠地帯(司令官 ‐鎌田少将)があった処で、海軍病院には看護婦も配属されていたことが、ニューギニア戦線では珍しく、若い海軍士官たちの憧れの的であったという。
 看護婦たちは昭和18年3月末に後方勤務となり、ウエワクを引揚げたとのこと。 ★看護婦たちの懇親会が〔南十字星会〕として海軍ニューギニア会内にあ る。台地の東端、州政府跡に(現在、州政府は山手に移転)、当時海軍司令部が使用したという防空壕があるが(44年、ヒックス州知事の案内で故田中会長に 随伴して見学)、今は州政府の許可なしでは見学できないようである。
写真⑥-1

昭和18年初頭のウエワク
写真⑥-2  平成5年、50年後のウエワク


昭和20年5月、豪軍が大挙して上陸進攻してきた際に、この台上を守備していた橘少佐、有田大尉の指導する機関砲25中隊、海上輸送中隊の将兵七十余名が、 これを迎撃、弧軍奮戦したのであるが敵部隊に包囲され集中攻撃をうけて全員玉砕したところで、痛恨の台地であるが史実を知る人は少ない。

 台地の下に道があり、海岸に沿って一周30~40分ほどで通ることができる、ルオ、カラサイ、ムシュ、カイリルの諸島を遠望しながら、潮風をうけて早朝の散策は心地よいがラスカル(強盗団)が出る時があるので一人歩きは禁物である。

 北側の断崖には自然にできた数箇所ある洞窟、洞穴のことについて
 戦中昭和19年5月、作戦上の重要機材を搭載して連絡のために潜水艦が来た。祖国より直接の連絡は最後と思われたので、遠隔地で転戦していた諸部隊が、 祖国送還の目途もなく保管携行していた戦友達の遺骨を、この潜水艦に託して祖国に帰還せしめるべく、ウエワクに集められた各部隊の戦没戦友の遺骨は、軍司 令部副官、柚原中佐が宰領して祖国に帰還せしめたことがあった。
 連絡来航の潜水艦は、敵の厳重な警戒網をかいくぐり潜航し、この湾内に夜間浮上したのであったが、昼夜の別無く海空からの警戒厳しく僅かな浮上滞在時間だけで、退避潜航し潜水艦は帰らねばならなかった。
★直接、ニューギニア軍と祖国との連絡と、遺骨の送還はこれが最後となった。

 各部隊では転進、転戦中に戦没戦死した戦友達を、収容埋葬が不可能時といえども、象徴的遺骨の一部を大切に保管し、(戦友の遺骨の一部を背負い移動しながらも)機会あるごと祖国送還に努めたのであった。
 この度も遺骨送還の便ありという通達をうけた部隊は、展開している遠い山奥の戦線より、保管していた戦友の遺骨を背負い、野に臥しジャングルに宿しなが らウエワクへ来たのであったが、搬入に数日を要したため、潜水艦への搭載に間に合わなかったという英霊数百柱(400余柱)は、前出のウエワク半島下の洞 窟内に安置保管されたという生還者の証言があったので、昭和44年度の遺骨収集時、残置遺骨を収容すべく査察したのであったが、戦後、豪軍により爆破され 埋没してしまい収骨不能の状態であったという事実もある。

 ウエワク半島台上より望む北正面の平坦な島がムシュ島で、終戦によりニューギニア軍の生残りの全将兵が集結し、祖国に帰還までの5か月余りの間に千三百余名の戦友達が、戦場の後遺症に絶え切れず祖国帰還を目前にしながら、無惨に果てた痛恨の島である。
★昭和30‐44‐48年度収骨作業を実施。
  重なり合って見える後の高い山があるのがカイリル島で、海軍部隊(第27特別根拠地隊)が終戦まで守り通した島である。
★昭和44‐48年度収骨作業を実施。

 半島台上より舗装された坂道を降りて行き右折すると、前方に通ずる街並がスーパーマーケット、一般商店(主に華僑の店)現地人市場などがあるショッピン グセンター街で、バス停横の現地人市場では木彫の珍品に出会うこともあり、午後あたりが賑わっており巡拝の帰路に散策するのも良いが、此処も時には、ラス カル(強盗団)が出るので一人歩きは止めた方がよい。

 坂道を降り切った右側の建物が郵便局で、切手(ニューギニアの切手は芸術的で有名)絵葉書などを売っている。カラフルな絵葉書で旅行中に一報するのもよい趣向であるが宛先到着が半月以上かかる時もある。
 反対側左方は船着場、カイリル、ムシュ島を始め近海の諸島、マヌス島、マダン航路、セピッククルーズなどの便船がある。
 湾曲するウエワク湾の全体は、戦中ニューギニア派遣軍の重要な揚搭基地であった。昭和18年初頭より、20師団(朝部隊)41師団(河部隊)主力を始めとして、多くの部隊が此処から上陸して前線に進撃していった。
 また、軍需品の一大揚陸地、補給基地で、航空基地でもあったので空爆の目標になっており、昭和19年以降は連日の猛爆に大損害を破りつつ耐えていたが、 3月の大空爆でダグア、ブーツ、ウエワクにある我が軍の航空基地が壊滅してしまい、その後、東部ニューギニアの戦場には日本軍機が一機もいなくなった。


慰霊墓苑 ウエワク・メモリアルパーク

 日本政府は昭和56年にニューギニア派遣軍の全戦没者を慰霊顕彰、追悼するためにとのことで、ニューギニア政府の協力(土地5,000㎡無料提供)を得て、厚生省と、これを支援した東部ニューギニア戦友会、日パ友好協会によって建立された慰霊墓苑である。

写真⑦  ウエワク慰霊公園 (昭和58年9月12日)


 設計=菊竹清訓事務所。建設施行=箱根植木株式会社。全資材は現地調達工事は現地の人達。総工費9,000万円と一ヶ年の日時を要して建設された。
 除幕式は同年9月16日で(ニューギニア独立記念日)厚生省政務次官、同省職員、戦友遺族(70余名)ニューギニア首相と政府高官、ウエワク州知事など、高官達など多数参列して盛大に執り行われた。
★慰霊墓苑の永久管理費は日本政府より支払いされている。
 礼拝堂に向かい右手の慰霊碑は昭和30年度、練習船大成丸で現地遺骨収集が行われた際、阿部岬(現在州病院、ボラムポイント)に建立された慰霊碑で、後日、移転合祀したものである。(題字は時の総理大臣、吉田茂の書)

 祖国存亡の危機に身を挺し、遥か南瞑ニューギニアの戦場で悲運にも戦没された全霊の拠り所として、慰霊の至誠をこめて建立された墓苑である。
 此処ウエワクに来訪する日本人や巡拝団は、是非とも参拝して慰霊顕彰して頂きたい。現地の人達もジャパンメモリアルパークと尊称し崇敬している霊所である。


洋展台 ミッションヒル

 洋展台(ミッションヒル)への上り坂、戦中はメインロードであったが、今は荒れ果てたデコボコの坂道である。登り詰めた展望のよい台地に教会の建物あり、立派な英霊碑が建立されてある。
 この英霊碑は、40野戦道路隊の遺児、西垣匡氏が、多くの遺族たちの基金協力を得て建立したものである。
 昭和18年初頭には第20師団司令部(朝部隊)が位置していた。同師団の前進後航空軍司令部(洋部隊)が進駐した台地であり、ウエワク一帯、ムシュ島、カイリル島まで展望よろしきを得たので、洋展台と呼称したとのことである。
★戦中、日本軍が外地に進攻していた頃は、外国語の排除思想などあって覚えにくい
  外地の地名などには、日本の地名を付けて呼称したという。

 洋展台より一望するところ、前方洋上、平たいムシュ島、高い山あるカイリル島は重なり合って見えるが離れている。洋上左方の小島は、カラサイ島、ユオ島である。
 眼下の雑草地は旧日本軍の中飛行場として使用されていた。現在のウエワク空港が日本空軍の東飛行場。左西方住宅地の西南方向、椰子林と奥一帯が佐久良森という、松の岬から移転した117兵站病院跡である。
 左方よりオウム岬(CAPE WOM)、ウエワク半島(WEWAKU POINT)、阿部岬ボラム岬(CAPE BORAM)、松の岬(CAPE MOEM)を望見できる。

 後方は、石和田山(石和田大尉)、加藤山(加藤大尉)(共に航空地上部隊この地で戦死)、泉山247台、コイキン台など東方へ連なる復廓守備陣地で、 20年5月、此処ウエワク地区に豪軍が上陸進行してきた頃は、兵種を問わず全員戦闘員化して山腹や稜線上で激闘、白兵戦が繰り返され多くの小部隊が玉砕し た激戦の跡で当時を知る戦友達に痛ましく伝承されている。
★この周辺一帯のジャングル内、下草の底に戦友達の遺骨が多く埋もれているものと
  予想されていたので、数度に亘り集骨作業を実施したのであるが、完全収集は不可
  能であった。今は唯々冥福を祈るのみである。

 この台上より100メートルほど下りた溜まり場のような所を左へ、小径を行くこと30メートル程のところに、5門並列した高射砲陣地がある。
 この砲陣地は、高射砲61大隊がホーランジャに移転進した際、後任部隊に移管された砲陣地であるという。昭和20年5月の豪軍来攻時、敵の砲爆撃で破壊 されたが、ここを守備していた25飛行場大隊の加藤大尉、高堂高射砲隊長たちは、この砲を徹宵修理し自ら操作して半島の敵に反撃したものと記録されてい る。

 ボラムロードに出て三叉路左側広場はウエワク・ハイスクール、100メートル程先上り坂はコイキン・マリックを経てマブリック・アンゴラム方面に行く道路である。
★コイキン台には、長野ニューギニア会で観音像を建立して慰霊に勤められている。
  空港方向へカーブしながら進行、左側岬の建物はゼネラルホスピタル(ウエワク病院)
  18年初頭、第41師団が上陸し師団司令部を置き、師団長名(阿部平輔中将ウエワク戦死)を付して呼称した阿部岬(CAPE BORAM)という。
  東へ進行右側、現ウエワク空港、戦中、日本軍の東飛行場として使用していた機上から見ると周囲一帯には、連日猛爆撃された弾痕が未だに多く残っている。
  進行左へ松の岬(CAPE MOEM)という。
  一時期117兵站病院が開設していたが洋展台の西、佐久良森(当時は大密林、現在は椰子林)というところに移転した。
  左側ブッシュには、高射砲陣地跡があって野高砲62大隊の砲が数門残っているが今はブッシュが繁茂して見えない。

 ウエワク地区の防空陣地は、洋展台、飛行場の南山麓、ムシュ島、松の岬に防空各部隊が展開し布陣してウエワクの防空に任じていたという。
★靖国神社遺品館前に奉納設置されている高射砲は松の岬陣地が原地である。
★同境内の海軍高角砲も激戦の地サラモア半島より、田中(兼)集骨団長と戦友会員有志が現地政府より貰い受け、持ち帰り奉納設置したものである。
(現在は遊就館内に展示)

 突き当りは、ニューギニア軍のゲート(駐屯兵営)である。営内見学の機会があっての所見は、現地人の独身兵は合宿兵舎住い、家族持ちは個建住宅に、家族 同居(営内居住、奥さん子供達は普通のサラリーマン家庭と変わりない)しており誠に優雅な軍隊生活であることよ、と思われた。
 戻り道して三叉路を左へ東進。整地された右側の丘に簡単な棚が巡らして数棟の建物が散在している処がウエワク刑務所、散見されるのは囚人達で、脱走犯皆無で看視人は必要無いとのことであった。
 昭和44年度の遺骨収集時、豪州人刑務所長マック・フアーランド氏の好意で、事業指揮班の拠点として、二十日ほど宿泊お世話になり利用した。(田中団長、入沢、後藤団員)。

 戦中は、この辺一帯が大密林に覆われており、丘と山稜の狭間に貨物廠の軍需品集積場があった処である。筆者は昭和19年前半期頃、カラワップ猛錦山軍司令部よりウエワク貨物廠へ4~5回ほど、公用で出張していた折々に目撃し体験したことである。
★池田中佐軍参謀の搭乗機がウエワク飛行場に着陸直前、敵2機に急襲され頭上で撃墜され殉職戦死されたこと。
★前出の抑留宣教師、敵性民間人たち数十名(60~70名らしい)を後送中の海トラが、ウエワク湾内で敵機の集中爆撃をうけ船諸共全員爆沈したこと。
★貨物厰に行く近道は、飛行場を縦断するという危険な難所があった。

 恐縮私事ですがある日のこと、爆撃の合間を見て飛行場を縦断する途中、超低空で看視襲撃する敵機に補促され、反復銃撃されて(同行助手、北村兵長と二人で)爆弾穴伝いに必死に逃げのびたこと、などは昨日の出来事のように記憶がよみがえることである。

 進行→曲り角、ブランデイ高校がある、校庭の一隅にウエワク防空部隊の遺品照空燈一基あり、傍に第一揚陸隊員(秋田編成)。松本力二上等兵(当時の人気 歌手、上原敏)の慰霊碑がある。松本氏は、ウエワク勤務中であった同隊半部と共に、ホーランジャへ転進の途路戦死されたとのこと。
 松本未亡人は故人を偲んで此処を戦死の地と定めて建立した慰霊碑である。(遺族、松本澄子氏は宇都宮市に健在H‐13。)

 さらに東に進行すると、森山地区-フロック地区-パティック川を経てテレプ岬に至る昭和19年4月頃の各兵団は、魔の水郷を渡河し逐次ウエワク地区に到着しつつあった。 
 この間、第20師団長・片桐中将は、参謀長小野大佐以下を従へ、ハンサより三隻の舟艇でウエワクに向かう途中、この岬の陰で待伏せした敵の魚雷艇に捕捉 され、猛烈な集中砲火を破り2隻が撃沈された、片桐師団長、小野参謀長は大部の乗組員と共に壮烈な戦死を遂げられたところである。
★師団副官平井大尉、椎名主計大尉たち数名が辛うじて数時間後、沿岸に泳ぎ着き得たとのこと。(故平井和雄氏証言)


ウオム岬 CAPE WOM

ボイキン・ダグアロードを西へ、スアラ部落の標識を右へ入り進行する。
マングローブが生い茂っている辺の湿地には、いまでもポクポク(鰐)の姿を見ることがあるという。
 橋を渡り500メートル程行くとゲートに突き当たり出入り自由。綺麗に整地され椰子の木が並植されており、日本軍の高射砲も陳列してある広場は平和公園という。
 奥の碑は昭和45年9月に開催された、リタント、ウエワク(ウエワクに帰ろう)記念行事のときに建立した、豪州政府主導の戦勝記念碑であり参拝するところではない。

 当時のニューギニアは独立前で豪州政府の統治下、ウエワク州知事であったエドウィン・Gヒックス氏からの招待をうけて、ニューギニア戦の参戦、5カ国 (米、豪、ニュージーランド、インド(インドがどうして?)、日本)日本側の代表として、故杉山戦友会長、後藤事務局長、星野通訳と慰霊を兼ねた戦友遺族 数名が参加した。各代表の異なる意見のメッセージに、司会役のヒックス氏が調整に苦心した様子を、当地の新聞論調に見られた。(該新聞、手元保存)

 此処、ウオム岬の史実は、ニューギニア全軍が悪戦苦闘2年有余、糧弾の補給なく、医薬品ともに途絶えて久しく、断末魔であった昭和20年2月1日のこと である、軍の強請に応えて通信機材と若干の医薬品だけを搭載した重爆一機が、西方ジャワより、夜間、敵陣地上空をかい潜りながら飛来した、ウエワク飛行場 が使用不能のため、この岬の草原で焚く篝火を頼りに決死的な胴体着陸を敢行したところである。
★武市大尉機長、諏訪隊員は生還後物故されたが、古谷、井原、ニ氏は健在。
★昭和20年8月終戦になり、ニューギニア派遣軍軍司令官、安達二十三中将が大命承詔必謹、現地における降伏文書に調印されたのが、此処オウム岬で昭和20年9月13日であった。
★終戦まで日本軍に協力した海岸部族の大酋長、カラオ氏の居住は海岸のウオム部落にあり、昭和45年時には子息キリス氏とその一族が居住していた。

 また、ウエワクを基点として西へウオム-ハワイン-ボイキン-ダグア-ブーツ-バラム-ソナム-マルジップ-スワイン-ウラウ-ヤカムルと、海辺に点在した部落を拠点として、多くの川を徒渉して、海岸寄りに歩いた道が旧軍道であって戦跡部落も多い。
 現在の巡拝道路は、ダグア・ロード、アイタべ・ハイウェーと連続して山沿いに開通しているために、旧軍道?は(ボイキン~カラワップ間以外)通らないので、戦跡の巡拝時には特に注意されたい。


ボイキン BOIKEN

戦中はウエワクから西へ海岸通を進行、ウオム部落を経てハンダラ川、ハワイン川の下流を徒渉しクエロンボ-ボイキンという順路であったが、今は山沿いに開通しており、旧海軍農場横を通り、ヤルボーズ、ラインボ、ハワイン橋、バロン、ボイキンという順路である。
★(この橋の設計架橋は迫撃21大隊の遺児、原晃氏の技になる。)橋の手前左へ行くとアルン、ベンゼン部落で猛通信部隊の慰霊碑がある。

 ボイキン周辺では特に激しい戦闘は無かったがアイタベ戦後、山南へ転進した一部々隊の順路であったことと、川の中流谷合に112兵站病院があったので、敵の爆撃目標になり、連日の猛爆で多くの人的損害を受けたところである。
 また、終戦後山南の奥地に展開していた各部隊将兵の多くが、終結の命をうけ、苦難の戦場に別れを告げて、この地よりムシュ島に渡った処である。

 昭和30年後半期の数年間、オーストラリア大使館員の身分で来日して、戦友達(特に海軍部隊会、川田浩二氏)の居宅などに寄寓しながら勉学に勤しみ帰国 後、独立したニューギニア政府の高官になり、初代国連大使となった現地人、ビンセント・マラガウ氏は、此処ボイキン部落出身の有名人であり彼の生家、住居 は高台にあり、その一族も部落に多く居住している。

 ボイキン部落の椰子林左手の方に、教会と小学校がある辺が中心地のようで、道路右側にある4~5軒の民家は、部落の元酋長オート氏一族の住居である。
 筆者とオート氏とは、カーヌンボ連絡所時代から個人的に眤懇していた仲であった。昭和44年以降、三回に及んだ当地区の遺骨収集作業の時にはオート氏と ピーター氏が先導して、村人達や小学生、教会関係の皆さんまで競って作業に協力してくれた親日的な部落である。(オート氏は、もう故人になったようであ り、ピーター氏は2世?)

 戦中、ボイキン川の中流には、昭和19年1月~5月までは90兵站病院が、6月以降は112兵站病院が開設されていた。
 しかし、医薬品は途絶え皆無となり、絶え間ない空爆で医療器具などは損壊消滅してしまっていたが長期に亘り補給がなく、病院とは名ばかりで食物もなく、 雨露を凌ぐ病舎もない処であったが、実情を知る術のない移動中の傷病兵たちは、病院あり-、と伝え聞き心の寄り所を求めて集まったようである。
 医薬、器具ともに皆無となってしまった病院付の軍医たちは、回診という見まわりの時も励ましの声を掛けて上げるだけ、衛生兵は死没者を埋葬処理することの毎日であったという。(112兵站病院、故猪子敏夫氏証言)

 戦い疲れ長途の転進行を続けて、ようやく辿り着いた兵たちを待つものは、常患のマラリヤが毎日熱発して衰弱を早め、更に食う物は全く何もなく小川の水だ け、統率もなく寄集った病兵達は、谷合の大木の下陰を雨露を凌ぐ寝所にして、ボロ天幕か泥まみれの半切れ毛布を被って横臥しており、死を待つだけの悲惨な 状態は、まことに凄惨そのものであった。
 かてて加えて連日の猛爆撃で数千人の死者が出た地獄谷であった。

 筆者(後藤)は、カラワップ川奥の第2猛錦山軍司令部を撤退して、移駐する山南の地、ヌンボク軍司令部との中継地の連絡所長を命じられて、昭和19年6 月~20年2月の間、ボイキン部落の南山頂カーヌンボ部落に駐留することになった、連絡所の護衛兵分隊と海軍陸戦隊より配属された義勇兵1ヶ小隊を指揮し てボイキン貨物支廠より残存貨物の逓送と、山南に転進する軍司令部将兵に対する便宜供与する任務であった。そのためにカーヌンボより急坂を下りボイキン川 の中を徒渉して兵站病院横を通りボイキン貨物支廠へ(健脚で下り2時間、登り5時間を)しばしば往復しなければならなかった。その往復の途路、爆撃を退避 しながら見聞した事実である。

 此処ボイキン地区の遺骨収集作業は、昭和30年以降7回実施されておりますが昭和44、48年度、ニ回の遺骨収集作業のみで、この地区より1686柱に及ぶご遺骨を発掘して収容した。
 収集した遺骨は川の畔の浜辺で茶毘に付し祖国へ帰還せしめたのであるがその残灰はボイキンの川辺に埋葬して戦友の派遣団員達が慰霊の木碑を建立した。
 しかし十数年後、木碑が朽ち果てたことと道路拡張に伴い、川辺より西へ100メートルほどの処を右に入るクホイ一族の屋敷内に、慰霊碑を移転再建立した。
写真⑧

ボイキン慰霊塔

慰霊碑は銅板囲で裏面に碑の由来と建立した戦友名を刻してある、傍らに独立工兵37聨隊の遺族、藤枝市の岡谷治氏が独力で建立したという同隊戦没者の慰霊石碑が並立されている。
 巡拝の途次には是非お立ち寄り願い、慰霊と共に碑を維持管理しておられる一族の奇特な心根に感謝の一掬を賜りますれば幸甚との思いである。


カラワップ KARAWAP 猛錦山軍司令部跡

 ボイキンより約5キロほど西へ進行した小川の手前左側に2~3棟の家屋がある。カワラップ部落の、旧№2キャプテン故コークエイ氏と一族の居宅で左側目 前、椰子林の窪地は5月23日猛錦山大爆撃の前日に投下された500キロ爆弾穴跡であり、この日の爆撃で部落も全部消滅してしまった。
 日頃の宣撫よろしきを得て慣れ親しんでいた部落民達は、軍司令部の将兵を慕い女子供に至るまで移動に協力しながら、フールン山を越えた山南他部族の地、ヌンボク地区まで移住し、終戦まで行動を共にしたのであった。


写真⑨-1

猛錦山(猛軍司令部)下のカラワップ海岸
写真⑨-2

米軍の爆撃で焼滅したが戦後復旧した猛軍司令部下のカラワップ部落


 当時を知るラプンボーイ・ラプンメリー(老人男女)たちは、アダチ、ビッグコマンダ、グンシレブ、ミープラワンテンゴーヌンボク(俺達は安達大将軍や軍司令部と一緒にヌンボクまで行ったんだ)と、懐かしく回顧している。
 道路の反対側ブッシュの奥の海辺に復旧したカワラップ部落があり、小川を越えた周辺には昔無かった民家が散在している。
 川に沿って800メートルほど溯行した山沿い、後日植林した小さい椰子林の中が、猛錦山と称した軍司令部跡であり、軍司令部が昭和19年5月24日、集中銃爆撃に遭い、軍の参謀、41師団参謀長を含め80余名の死傷者を出す大被害を受けた所である。
★戦死された高官たちのご遺骨は、昭和48年度の現地遺骨収集事業時に、ボイキン隊
  員の戦友たち(堀江団長。須貝団員、後藤団員)が発掘に成功したので、ご遺骨と同
  葬の遺品を奉持帰国して、それぞれの遺族様たちに奉還申し上げた事実もある。軍
  司令部はその後、川の上流、第二猛錦山に移り、フールン山南麓のヌンボク地区に
  移駐し終戦に至ったのである。

 爆撃跡地には軍通信隊が使用した発電機の残骸があり、故コークエイ氏(当時からNo.2キャプテン)が椰子を植林してあって、(ジャパン、ヤシ)と呼ん でおり『食うものが無かった日本のソルジャー(兵隊たち)にプレゼントするために植えている椰子だ、遠慮なく採って食ってくれ』と云ってくれた。
 昭和45年の慰霊巡拝時、故杉山戦友会長に随伴してカワラップ部落を訪づれた際の一駒で、当時を思い起こし彼等の厚情に涙腺の緩むのを禁じ得なかった。
 望めば案内してくれる。

 西へ進行、ウリップ(ULIP)部落入り口を右へ曲がり行き、ダグア飛行場跡の草原を横切り、突当り海岸手前を横切る旧軍道に教会と学校があり、その敷地内に、故山田無文師の建立になる慰霊碑一基あるが、通行便の悪さで誰も行かないようである。
 しかしウエワクより西へ、進撃に撤退に我軍が移動に使用した本軍道は、内陸部より50メートル程度の海岸道であって、海岸に点在している住民部落と連携 していた。ウエワクを基点にして、ウオム岬-パス岬-ハンダラ川とハワイン河では、ワニに注意しながら胸まで川水につかって渡渉、クエロンボ-ボイキン- カラワップを経て、カウイ、ダグアと飛行場北側海岸道を西行したのが、旧軍道で、南側ダグア部落より西へ進むと、コタイ(KOTAI)部落近く左手分れ道 に道標がある。左折しての行先は十国峠(20師団の戦闘部隊の激戦地)を越え(徒歩約3時間ほど)オクナール部落(現在オギナラ)を経てマプリック方面に 通じているが、車両では未だ行けないらしい。


ブーツ BUT 飛行場跡

 西へ進行、部落の手前右側、海に面して建立されてある慰霊石碑は、大和高田市の一遺族が故人を偲び単独で私費を投じて建立した供養塔である。ご遺族の心情を推察して慰霊合掌。
★沖あいのニ島はワリス、タラワイ島である。平成元年度に遺骨集収実施した。

 部落を過ぎて、背を没する草原と化しているのがブーツ飛行場跡である。昭和18年8月頃、飛行6、7師団主力がウエワク、ダグア、ブーツの3飛行場に航 空機を展開して総反攻を準備したのであったが、出撃の前日に敵機の大爆撃に遭い全滅の悲運に見舞われてしまい、ニューギニアの日本空軍は破滅した。
 過ぐること五十余年、草茫の中に残る残骸に無念の思い新たである。
(写真10-1)
(写真10-2)
此処より西へ進行、バラム、カウク、ソアム(ソナム)、マタパウ、スワイン、マルジップ、ウラウ、ヤカムルと云う海岸沿いに点在する部落の順路が旧軍道 であって、ソナム、サルップ、ゼルエン岬、マルジップ、ダンアップ川、スワイン、坂東川畔まで続くこの地区には、戦跡も多いが山際に、本道(アイタベハイ ウェー)が整備されたこともあり、海岸に所在する各部落を連絡している旧道は獣道にひとしい昔の現地人ロードであり、海岸道で車両が通行出来るのはブーツ 部落よりバラム部落までで、リニホク川には橋がないので行けないし、炎天下の徒歩行は不可能である。

 ソナム部落(現地名ソアム)には陸軍航空部隊会と長野ニューギニア会(戦友)で建立したという慰霊碑があり、親日的な部落民が守護しておられる。
 この方面に巡拝訪問される際は、現本道上に(アイタベ・ハイウェーと称してもジャリ道)部落進入路を標示してあるが判りにくいので、現地人のガイドに案内して貰うのが良いようである。

 当時のニューギニア軍の総力を傾注した坂東川の戦いは、戦闘部隊、支援部隊とも死力を尽くして戦ったのであったが、戦利なく糧弾共に尽き果て多くの戦死 者を出して戦闘を中止し、41師主力はダンアップ河を溯上しマリン地区を経て山南へ、20師はコタイ、十国峠、オクナールと、一部は、ボイキンを経て山南 へ。その他の参戦諸部隊はこれに付随し、51師団の一部隊はウエワク地区の原隊に復帰し、最終戦に備えたのだった。

 アイタベ作戦で有名な坂東川(現地ドリモニュー川)には、コンクリートで架橋されている、橋上に立ち俯見する上流遥かなところが、20師団の戦闘諸部隊が激戦を交えた戦場アフア方面である。
 この橋附近より河口チャキラ部落までの間が、41師団(河部隊)の戦闘諸部隊が米軍と死闘を繰り返した戦場である。
★この附近アフアまでの河岸地区の収骨作業は昭和44年度より3回実施されている。

 故吉原中将(18軍参謀長)著書より坂東川決戦の一節を転記させて頂き、当時を回想し、この地域で散華した全戦没英霊の、ご冥福をお祈り申し上げることにします。

...七月十日二十一時五十分、二十師団方面の砲兵先ず砲火を開き、次いで各隊の重火器一斉に射撃を開始し、我が第一線の将兵は敢然敵の猛砲火を冒し怒濤のごとく坂東川を渡河し敵陣に突入した。
 敵陣の敵兵は叫号周章大混乱しつつ西北方に潰走したが、敵は陣容を立て直し反撃に出てきた。
 視界のきかない大密林のなかで、我軍の後方に敵の戦闘隊あり敵の陣内に我が戦闘部隊ありで、彼我の銃砲声を頼りの大混戦という状況が続いた。
 十二日午前、チャキラ部落附近において激闘中の部隊は戦車数台を伴う敵と遭遇した。同部隊は山砲を以て先頭車ニ輌を擱坐せしめたるも、忽ち飛行機、砲 兵、魚雷艇の猛射を被り、死傷続出し火砲は全部破壊され戦闘部隊の中隊長以下ことごとく倒れ、部隊は壊滅に瀕したので大隊長星野少佐以下三十余名の生存者 は、敵の自動車部隊と戦車群に突入し全員玉砕した...。
 かくして八月初頭における我が七個の歩兵聨隊中、第一線兵力が百名を越えるものなく、多くは三十乃至五十名程度に減少してしまい一個聨隊が即ち一個小隊の戦力として化してしまったのである。

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