ニューギニア戦跡案内 マダン



 マダン MADANG
昭和18年4月以降、敵機が本格的来襲前後のマダンの戦場懐古

マダンはニューギニア派遣軍の重要な前線補給基地であった。現在、ビネン港の入口モデイロン通りの先端あたりが、数千屯の船も横づけできる揚搭塲になっていた。
 また、この付近や海岸一帯は椰子の埴林地で白人の家屋が2~3散見された揚搭塲近くの白人家屋は、ここを守備していた54兵站警備隊が接収し使用していた。
 マダンリゾートホテル辺りにあった野戦郵便所より、司令部宛の郵袋を受領したのが6月頃であり、三年有余の南海の戦場生活中、只一度手にした祖国からの便りであった。
★筆者は、軍司令部用軍需品受領搬送の任務で、アムロン軍司令部よりマダン貨物支廠に数度往来し、その都度兵站警備隊より宿泊便宜と使役の協力を得ていた。
 
 現在の小学校、高校、マダン工科大学辺りまで椰子林が連なり、その奥はゴムの大樹林が茂っており、周囲は大ジャングル地帯で陽射しもなく、蚊が多く群れ ジメジメした中に、補給廠の各部隊が駐屯しており、軍需貨物集積場に使用されていた。また、その奥は前線に追求する部隊将兵達が駐留していた。
 銀行郵便局、マーケット市場方面よりリゾートホテルの間は入江になっており入江の水路は、現在のような地続きのつながりは無く、周囲が小ジャングルに覆 われた入江であり、当時は船舶工兵5聨隊の舟艇秘匿基地で、中川クリークと称していた。また、現在のビネン港は周囲一帯が密林に覆われていた奥深い入江に なっており、船舶工兵9聨隊の舟艇秘匿基地で花輪クリークと称していた。

 現在のビネン港入口付近より沿岸警備隊記念塔、辺に至る海岸地区一帯には、野戦高射砲隊や野戦機関砲隊、照空部隊などの防空各隊が配置布陣していた。入 港する日本軍の輸送船や補給基地を狙って襲撃猛爆する米豪軍の編隊機と、これを迎え撃つ防空部隊との死闘が連日繰り返されるようになった。
 銃爆撃を交えて三波五波と、間断なく来襲する敵の攻撃編隊に我が防空各部隊は、周囲を土嚢だけで囲った陣地で真正面に対峙し、敵機と差し番えるような対 戦であり、敵機の銃爆撃で舞い上がる土砂埃と、味方砲陣地の連射で立ちこめる硝煙の中で、全滅に瀕しながらの壮絶な奮戦振りは、死生感を超越した神神しい (気高く貴い)姿であった。
 此処、マダンに於いて敵機を撃墜すること二百数十機に及んだと記録されてあり、"米豪軍をして攻撃機の墓場である。"とまで云わしめたとのことである。

 戦後50余年を経た現在のマダン地区は、昭和43年頃に日本の現地法人ジャント社(本州製紙株同系)の企業進出が周辺の住民意識や地域発展と現代化へ拍 車をかけたようで、世界的なダイビングエリアあり、街には博物館、カルチャーセンター、マーケット(市場)、銀行、ショッピングセンターがあり、ホテルも ロッジ、ゲストハウスを含めて七軒ほど。
 市民公園近くの大衆市場には、近郊より持ち寄る日用食品類や、民芸貝細工品などが売られている。日本人村の(ジャント社々員家族)ご婦人たちとお会いする時もあり気軽に散策することができる。
 その他、セピック河=観光クルーズなどの基点もあるようで、治安面も良好である。マダン湾内外には、クランケット島、ビリアウ島など多くの島嶼が点在 し、日本の松島を連想させられる。晴れやらぬ朝靄の海上で島民がカヌーを漕ぎ魚漁している風景は絵のように美しい。


ヤボブ YABOB VILLAGE編
 マダンの街から南東ラム・ハイウェイを車で10分程のところ丘の下がヤボブ部落で焼物(煮物に使用する原始的素焼き壷)の名産地であったという。
 戦中は、丘陵一帯が密林に覆われていたところで、密林内には123兵站病院が開設されており、ゴゴール河の手前アメレーには、20師団司令部が進駐して いたときもあり、隷下部隊を指揮して、南方の山岳地帯カイアピット、クワトー、ケセワ方面で激戦を展開していたその頃、レイ(ラエ)を撤退した51師団主 力の大部隊は、峻険、サラワケット越え中であったし、9月中旬には北東方、フインシュハーヘン地区アント岬に敵上陸ありで、多難な戦況を強いられていた最 中。前線より後送されてくる戦傷将兵を治療しながらも多くの戦没者を出したところであるとのこと。
★(123兵站病院、故巴軍医の証言による。)

 昭和44年10月、(厚生省主催)戦友会の遺骨収集事業時に、南東方山中の旧戦場、カイアピット、トンプー、ボガジン方面や、この地の兵站病院跡より収集した多くの遺骨を焼骨した跡地に、戦友会員のマダン班員が持参の木碑を建立して慰霊したのであった。
 戦友遺骨収集団の各班が木碑1基づつ計10基持参してあったので、各班が象徴的地区に建立したうちの1基である。

 現在の石碑は昭和58年、マダン州知事の後援と現地法人ジャント社の協力を得て戦友会が改修再建したものである。また、この土地はマダン州の無料提供地 であり墓碑一切の管理は、ジャント社が引き受けて下さっておられる。 戦没戦友の慰霊事業に対して、特別のご協力を賜りおりますジャント社には、深甚の謝 意を申し上げると共に、戦没英霊の冥福を祈念する慰霊所である。

 此処ヤボブの丘に立ち東方正面、海岸沿いに望見される山脈は、フイニステールの山並で、ボガジン、マラグン、サイドール、ガリ地区を経てフインシュハーヘンの激戦地跡に行くことができる。
 ガリ転進路は、第2のサラワケット越へと云われた山岳険路で食糧も枯渇し木の根草の根を齧りながら、峻崖をよじ登り千尋の谷川を渡り獣道を踏み分け、戦 い疲れた数千の将兵が苦難の転進を果たしたところ、3,000余名が戦没したと記録されているが、この行路の巡拝行は無理のようである。
★昭和44・48年度。平成3年度。遺骨収集を実施されている。


アムロン AMURONN   ナガダ NAGDA
 マダン市街よりノースコースト・ハイウェイを西へ、沿道の両側は延々とアレキシスまで続く椰子の並木道で、その樹下にカカオが栽培されている。
 昭和18年5月頃のナガダと云うこの地は、丈なす雑草が繁茂し荒れ果ててブッシュ化した椰子林には、野生化した痩馬が奔走しており、林の中に野牛の群れ が屯したり、薮中の小川の出口辺にはポクポク(鰐)の影もみえて我々を驚かせた。マダン~アレキシスの中間地点の左台地がアムロンという。

 昭和18年初頭より19年半ば頃まで、第十八軍司令部が(猛部隊)駐屯し、猛将安達軍司令官が、在ニューギニアの全軍を指揮したところで、猛頭山と呼称した。
 台地以外の周囲一帯は大密林であり、その北側に面したジャングルの樹下に、椰子の葉葺きの仮小屋を立て連ねて各部が分駐し、軍司令部の機能を果たしていた。

写真④

マダン猛頭山18軍司令部跡
(昭和44年9月)


 台地上からは、マダン、アレキシスを含めて周辺洋上のセク・カルカル島まで展望される広々とした芝生の台地上には白人家屋が一軒あって、これを軍司令官 々邸に使用していたが、敵機の爆撃目標にもなっており、しばしば空襲されて銃爆撃を受けていた。高台の斜面には今も退避壕跡が残っている。
★司令部衛兵隊が重機関銃のみで、超低空で襲撃してくる敵一機を撃墜したこともあった。
 また、マダン、アレキシス上空や洋上で、彼、我の空中巴戦を見ることもあったし軍司令部の駐屯地も時々敵機の猛烈な銃爆撃に見舞われていた。あるときは 近くの洋上で空中戦が展開され、敵ロッキード二機の狭撃に会った友軍機が、前後から追い詰められて急上昇退避したために敵機同士が正面衝突し、二機とも墜 落したそのときは快哉を叫びながら海辺に馳せたこともあった。

 現在のナガダ・ミッションがある入江の奥に、軍司令部の海路連絡や軍需品の揚搭に使用していた、ナガダ船着場と称していた所がある。筆者が高木という同 僚と二人で2メートル程のポクポク(鰐)を住民の協力を得て生捕ったことの思い出があるところで、現在の地名もナガダという。
 マングローブ林で小ジャングル化していた旧桟橋付近は綺麗に整理されて、旧船着場はボートハウスになり、入江一帯、海浜まで綺麗に植林、整備された椰子林に点在する文化小住宅が、程よくコントラストされて南国の風情が満喫できる。


アレキシスハーヘン  ALEXISHAFEN
 当時のアレキシスハーヘンは、沿岸輸送を任務とする舟艇部隊の中継地で、舟艇整備施設もある基地だった。
 今ある教会附近には、当時も外人住宅や教会(ミッション)があって、白人の宣教師、修道女、華僑などを含めて2~30名ほど居住していたようである。
 軍司令部では、アレキシスとウリンガンにあった教会、住宅などは接収し現地人以外の全員を、アムロン台地の奥ノブノブと云う部落に収容し、部落内だけの自由行動を認めて憲兵隊の監視下に置かれていた。
 筆者は任務で、彼等に一般兵食定量の食糧を補給していたが、関心がなかったので彼等と親しく会話を交わした記憶はない。我軍で接収利用していた協会や建物は、後日数度の敵の猛爆で焼滅した。

 後日談になるが、昭和19年1月下旬、収容した彼等を退避させるため、海トラ(3~500頓級の小型船)でホーランジャへ後送の途中に寄港したウエワク 湾内で、米軍機の空襲に会い集中して猛銃爆撃された。黒衣白衣の宣教師始め民間人を含めた数十名が、両手を上げて同胞の合図をしているにも拘らず、船もろ とも爆沈され全員死亡してしまった。
 公務でウエワク出張の途路この空襲に出会ったので、洋展台の中腹斜面に退避しながら見た一部始終は、終生忘れ難い敵の残酷な行為であった。

 ハンサ方面に向かう道路左奥には、我が航空軍のアレキシス飛行場がある。航空部隊の前進基地であったので連日空爆されていた。
 この地区に布陣していた防空主力部隊は、野戦高射砲58大隊、63大隊で、決死的奮戦の連続であり多くの犠牲を出していた。
 特に昭和18年11月13日の空爆は物凄く、2平方キロ程の地区に戦爆連合200機が入替わり立ち代りの集中猛爆撃であった、我が防空部隊も良く戦い、 B‐52、15機、B‐24、5機、その他数機を撃墜したがアレキシス飛行場と共に破滅的な打撃を受けた地である。
★いまだに残る飛行場跡には、胴体に日の丸マークと悲壮な感慨を残して、蒼茫の露にぬれている。(この地区附近は、昭和44年度収骨実施された。)

 アレキシスハーヘン北方沖合に望見されるのは、標高1800メートルの火山島カルカル島である。戦中カルカル島には、警備の小部隊と宣撫農耕を指導し兼務指揮するために軍司令部の経理部員、前田主計大尉が派遣されていた。
 島民に対する同大尉の宣撫工作が非常に良かったので、現地島民達からはビッグキャプテン(大酋長)カルカル王とたたえられ畏敬されていた。
 外洋大型カヌーを連ねて果物野菜を満載し補給して貰ったことは、生鮮野菜払底で難渋していた給養係や将兵の給養食餌に、待望久しい干天の慈雨の思いで感謝頻であった。

 昭和19年3月第18軍は、第8方面軍(軍司令官今村大将、ラバウル)の隷下を離れ第2方面軍(軍司令官阿南大将)の指揮下に変更されたので、新作戦計画により将来の基地としてホーランジャ(現ジャヤプラ)を整備強化することになった。
 ホーランジャは陸、海、空三軍の基地構成の可能性があり、中部ニューギニアに於ける戦略戦術上の最大重要地であったので、大本営においても這間の事情を 了解して、第2方面軍編成の際、歩兵1聨隊、砲兵1大隊の部隊を前進部隊的にホーランジャに配置しようとしたが、諸種の事情により中止された。
 依って大本営は最新装備の機械化歩兵聨隊をパラオにおいて編成し、これをホーランジャに注入すべく昭和19年3月頃輸送したのであるが(南洋第6支 隊?)輸送船はパラオよりホーランジャに向かう途中、敵潜水艦の攻撃を受け、多数の戦車、装甲車等の資材は勿論、聨隊長以下将兵殆ど海没し、僅かに大尉を 長とする約100名程が辛うじて駆潜艇に収容され渡来したのみであったという。
★(吉原参謀長著戦記、『南十字星』より)

 ホーランジャまでの中間地点、アイタベ強化の補助部隊として補給の途絶に備えて、軍は守備部隊に先駆けて農耕隊を派遣して農耕を準備することになって、 カルカル島の島民100余名を以て自活農耕隊を編成し軍経理部の前田主計大尉を長として、昭和19年1月アイタベに派遣された。
 当時の現地人は、国家、国民の理念などと云う意識とは全く無縁であってその生活圏は部族単位であり独自の言語を有し、限られた地区に居住していたので、 言語、習慣の全然異なる他部族の地域に出稼ぎに行くなど全く無かったが、これを可能にしたことは、いかに同大尉が島民達に崇敬されていたかを立証された一 事であった。
 約100人島民若者を率いてアイタベに赴き農耕を開始したのであったが、昭和19年4月、米軍がアイタベに来襲し上陸後、4月敵米軍のアイタベ上陸後、 カルカル島民が彼を裏切ったかアイタベ住民が敵側に通じて不慮の死を招いたか、その後、杳としてその消息をつたえるものはない。


ウリンガン ~ハンサ方面
 アレキシスハーヘンより海岸沿いに西方向へ、ムギル、ウリンガン、ボギア、アワー、ヌビアなどの部落を経てハンサに至る。ヌビア附近の海岸より沖合を遠望するところ、常時煙を上げているのがマナム島で、当時の戦友たちはハンサ富士と呼んでいた。
 マナム島近くに椰子の木が数本生えている小さい島がある。所在の戦友達は軍艦島と称していたという。この小島を日本軍の輸送船団の擬装した船と、見間違えた米軍の爆撃機が、しばしば銃爆撃を繰り返していたとのこと。

 此所、ハンサ湾の昭和18年頃は、後方基地ウエワク港以上に重要な前線向け補給の大基地であった。しかしマラリア蚊が猖獗を極め、ハンサ熱(悪性マラリ ア)多発地で有名(?)であったところ。(44兵站地区隊の警備地) しかし、輸送船団の入出港は引きも切らず、前線へ追求する部隊将兵の上陸や軍需物資 の揚陸に忙殺されていた。

 これを狙って敵機の銃爆撃も連日物凄い激しさであった。迎え撃つ我軍のハンサ地区防空部隊は、38高射砲中隊、41高射砲中隊、58高射砲大隊、63高 射砲大隊、65高射砲大隊、29機関砲隊の諸隊、連日のように波状攻撃をしかけてくる敵機との死闘が繰り返されていた。
 この地区でも敵機を撃墜、撃破すること二百二十余機に及んだ、と記録に残っているが、わが方も破滅的打撃を受け多くの戦士をうしなった。
(故田中参謀の高射砲戦記より)

 日本軍の輸送船団をして『ハンサ行の輸送船は地獄の一丁目行で二丁目が無いところ』(生きて帰れないの意)とまで云われていた。
 地上の広大な椰子林も、連日の猛爆撃で葉は全部吹き飛び、折れ曲がった椰子の木柱が林立し、爆撃の跡は荒野と化していた。
★昭和44年度に基地跡を発掘し多量集骨することができた。
 現在は椰子林も旧以上に復元し、ヌビア地区は住民も多く、マラリア蚊もいない典型的な南国の海浜部落に変貌している。
★ハンサとは地名であって部落では無かった。また、マダンを起点にしてハンサ迄の日帰り慰霊の行程は、マダンを早朝出発がよいようである。

 これより西方、ラム、セピックの両大河と周辺50キロに及ぶ大湿地帯を戦線の移動に伴い軍主力が転進行したのである。ボスゲン、カブン、ビーン、マリエ ンベルグ、カウプを経てウエワクまで約100キロ。転進部隊は膝まで胸まで、泥水に浸りながら歩き続ける毎日で、水の中では炊飯もできず生米をかじり、猛 烈な蚊の群れに悩まされ小休止する地面もないため泥水の中に立ちすくみ、茨の木に寄り掛かって仮眠し乍らの転進行で、疲労困憊その極限に達し水つく英霊も 多かったという。
★大水郷、大湿地帯で収骨作業は不可能な地帯であり、この地で戦没された英霊に対しては唯々冥福を祈るのみである。
写真⑤-1

ハンサ沖-マナム島
ハンサ富士と呼んでいた。
写真⑤-2

ハンサ沖にある軍艦島と称していた。
米軍機が日本軍の擬装輸送船と見間違えて、時どき爆撃していた。



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